昨日の「日立 世界ふしぎ発見!」、ご覧になりましたか?
ミステリーハンターの冨永愛さんが出題した問題の補足になりますが、伝統的工芸品「十日町明石ちぢみ」にはこのような歴史があります。

◆明石ちぢみの歴史
「明石ちぢみ」は今から400年ほど前、播州明石の船大工の娘・お菊によって「かんなくず」をヒントに考案されたといわれています。また、『本朝俗諺誌』に「明石縮は 豊後国(ママ )小倉の名産なり」という記述が見られるように、明石藩主の小笠原氏が豊前小倉に国替えとなり、小倉でも生産されていました。
享保年間に刊行された『万金産業袋』に「たて絹糸、横もめんいとにて、 尤も もっとも よくうつくしく縮たる物也。」とあり、もともとは、 経緯 (たてよこ) とも木綿でありましたが、 苧 (お )と絹の交織が生まれ(苧縮)、やがて経緯 とも絹糸になり、「明石本縮」と呼ばれた歴史もあります。
そして、明治20年頃、新潟県柏崎町の越後縮問屋・洲崎栄助が、西陣の織物業者が「明石ちぢみ」を研究しているのを見て、西陣より湿度が高く、越後縮以来の強撚糸の優れた技術を持つ十日町が織るのに適していると考え、十日町の機業家「米忠」の佐藤善次郎に裂見本を見せて研究を進めたのが、「十日町明石ちぢみ」の始まりです。
撚糸の担当は金子幸吉、意匠は「絣の名人」直井喜代八、整理仕上げの担当は浜間庄蔵。いずれも当時の最も優れた技術者が「明石ちぢみ」の開発に挑むことになりました。
試行錯誤を繰り返し、更には「澤喜」の田口米蔵との共同研究を進めていきますが、最大の難関は「撚糸」と「整理・仕上げ」であり、幾度もの失敗や血のにじむような苦心を重ねながら、明治27年頃に製品を市場に送り出します。
経糸に練糸、 緯糸 (よこいと) に生糸を使った両シボ明石は「 透綾(すきや) 」に似ており、「 縮緬 (ちりめん) 」に近い地風なので、当初は「透綾縮緬」と呼ばれていましたが、原産地の地名をとって「明石ちぢみ」と命名され、「十日町明石ちぢみ」が誕生しました。難産の末に誕生した「十日町明石ちぢみ」ではありますが、割高感が強い上に商品そのものが未完成であったため、当初の需要は必ずしも多くありませんでした。しかし、蒸熱加工により「濡れると縮む」という欠点を克服、「玉の汗にも縮まぬ明石」の名のもとに面目を一新し、その後、防水加工の発明によって高級夏着尺の地位を確立していきます。


このような産地の改良・努力とともに、大正年間には生産点数は3万反から15万反へと5倍になり、昭和4年に発表された「十日町小唄 (作詞:永井 白湄 作曲:中山 晋平)」がコマーシャルソングとなって、「十日町明石ちぢみ」を全国に広めていき、昭和7年の生産点数は27万反と産地全体の70%を占めるようになりました。
昭和10年10月には「明石ちぢみ創作50年祭」が3日間にわたって産地を挙げて盛大に行われ、発展功労者の一人に、吉澤織物で「十日町明石ちぢみ」の製織を始めた五代目吉澤与市(貞治)も選ばれています。

※十日町市にて製造される「明石ちぢみ」は昭和57年に「伝統的工芸品」に指定された際に「十日町明石ちぢみ」という名称になりました。
◆十日町小唄(作詞:永井 白湄 作曲:中山 晋平)
越後名物 数々あれど
明石ちぢみに 雪の肌
着たら離せぬ 味の良さ
(テモサッテモ ソウジャナイカ
テモソウジャナイカ)
雪が消えれば 越路の春は
梅も桜も みな開く
わしが心の 花も咲く
(テモサッテモ ソウジャナイカ
テモソウジャナイカ)
逢いはせなんだか 十日町(とおかまち)橋で
長さ六丁の ゆき戻り
恋か涼みか 夜を明かす
(テモサッテモ ソウジャナイカ
テモソウジャナイカ)
人が見たらば 横丁へよけて
雪のトンネル 隠れ場所
恋の抜け道 廻り道
(テモサッテモ ソウジャナイカ
テモソウジャナイカ)
※これらの文章を作成するにあたり、先日お亡くなりになられた郷土史家・佐野良吉先生の資料を参考にするところが多くあります。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌
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