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伝統的工芸品「十日町明石ちぢみ」とは③

Topic_05

第3回「十日町の織物の歴史」

「明石ちぢみ」が登場するまでの十日町の織物の歴史を簡単にご紹介致します。

江戸時代は①・②にも掲載しましたが、麻の一種である苧麻(カラムシ)の繊維を績んだ青苧を素材にした「越後縮」の生産地と流通基地として栄えていました。この「越後縮」は緯糸(よこいと)に強い撚りをかけ、布地にシボを出した織物で、薩摩上布につぐ高級夏織物として珍重され、帷子(かたびら)や裃などに使われました。

明治になると、木綿や絹織物の普及で「越後縮」は衰退します。しかし十日町は幕末に絹織物に転進しており、「絹縮」の産地となりました。絹縮は「透綾(すきや)」と呼ばれ、1反が約200グラムしかなく、蝉の羽のような涼しそうな夏着尺です。

やがて、より高級な「撚透綾(よりすきや)」や「壁透綾(かべすきや)」を経て、明治20年頃に「明石ちぢみ」が登場します。しかしながら緯糸に強撚糸を使うために、水に濡れると縮んでしまう、という課題が残りました。

初めは「透綾縮緬(すきやちりめん)」と呼ばれていましたが、その後改良され、大正末期に防縮技術(蒸絨加工)の発展に伴って欠点を克服、名前も本家播州明石の「明石ちぢみ」を踏襲し、「ちぢまぬ明石」と呼ばれ、昭和の初頭には盛夏着尺の中でも大ヒット商品となりました。

「越後名物かずかずあれど 明石ちぢみに 雪の肌」

「明石ちぢみ」は有名な「十日町小唄」を今でいうCMソングとしながら、全国に広まっていくのでした。

吉澤家では、五代目・貞次が明治30年(1897年)に「明石ちぢみ」の製作を始めたと記録にあり、この年を「吉澤織物創業の年」としています。因みに三代目・與市が安政3年(1857年 ペリーが浦賀に来た頃ですね)に専業で前掛け地を作り始めたという記録に基づき、この年を「吉澤織物創始の年」としています。                                                                                         

※伝統的工芸品「十日町明石ちぢみ」の新作やゆかた・小千谷ちぢみの展示販売会を6月9日から12日まで日本橋・新潟館NICOプラザにて行います。DMをご希望の方はメール(info@kimonoemakikan.co.jp)かお電話(025-757-9529)にてお申し込み下さいませ。

後日案内状を送らせて頂きます。

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